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「必死っていうのは、『必ず死ぬ』と書くんだ。なんだ、誰も死んでねえじゃないか」

僕が敬愛する故野村秋介氏は、生前、若い人をそう言って叱ったそうです。もちろん「死ね」という意味ではなく「言葉を大切にしろ」と言い聞かせるためでした。

同じような意味で僕が違和感を覚える言葉に「命懸け」があります。命はひとつしかない。毎日毎回、命を懸けていたら命がいくつあっても足りないと思ってしまいます。この言葉を発する人のほとんどは、本当の意味で命を懸けたりしていない。本当に命を懸けて戦っている人は、いちいち「命懸けです」なんて言う暇はないはずです。さらに、こうした人たちは、他人に向かってこう言いがちです。

「俺は命懸けでやってるんだ。お前の命懸けでやれ」
昨今、マスコミで叩かれている某社には「鬼十則」なるものがあるそうです。それぞれには一理あるし、仕事をする心構えとして必要なことだと思います。ただ、こうしたものが作られるには、時代背景があり、文脈があります。それを無視して言葉だけ取り出すと碌なことにならないも思うのです。

「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。」
という項があります。これを真に受けるから「命懸け」なる言葉が出てくるのでしょう。だけど死んだら放さざるを得ない。死んでしまったら「目的」を完遂できないじゃないか、と思います。

それとも、組織の目的を完遂するためならお前は死んでもいい、という話でしょうか.そんなわけない。絶対に比喩なはずです。たかが仕事ごときに命を懸けていたら、命がいくつあっても足りない。

僕が尊敬する高杉晋作は、何度も殺されそうになるたびに
「こんなバカなことで死ねるか」
と言って、脱兎のごとく逃げました。何度も、です。ただ一度、佐幕派に牛耳られた長州藩政をひっくり返すために、たった一人で立ち上がりました。功山寺の決起と言われるものです。従ったのは伊藤博文をはじめ80名。敵は少なく見ても2000名。この時は死を賭して立ち上がったと思います。そして彼は歴史に名を遺した。

命懸けでやる仕事なんて、一生に一回か二回で十分です。タイミングも他人に決められたらかなわない。自分で「ここが勝負」と思うところで決める。
「自分の人生を生きろ」というなら、そうするしかないと思うのです。