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うろ覚えで申し訳ないのですが、上野千鶴子御大が何かの本で、
「社会科学の文体は『難解』であってはならない。」
と書いていたと記憶しています。また
「その文章が『難解』であるとすれば、たんに悪文であるか、それとも書き手自身にとって未消化なことがらを書いているからにすぎない。『難解さ』は社会科学の記述にとって何の名誉にもならない。」
ともありました。
(たしか、『差異の政治学』の中の「<わたし>のメタ社会学」だったと思います。)

上野御大の影響を受けてきたせいもあってか、もっともだ思います。難しいことを平易な言葉で語ることができるのは、そのことについて十二分な理解をしている証拠でもあるし、難解な書き方をするよりも名誉なことだと思っています。

難しいのイメージ写真

昔は、さも難し気に語ることが高尚だという風潮もあったのでしょうが、今は違います。読んでくれる人、聞いてくれる人に伝わるかことが大切です。たとえば、物を売るとき、昔なら「よくわからないけど高級そうね」ということで買ってくれたでしょうが、今は「これにどんな価値があるのか」を理解してもらえなければ、高くても安くても売れない時代です。

難しいことを平易に語る。初心者にもわかりやすく説明する。このことの必要性は一層増してくると思っています。

ただ、これは発信側の心得です。読み手、聞き手といって受け手側の人から、
「もっとわかりやすく! もっとやさしく!」
と過度に要求されることには違和感を覚えます。ある程度は当然のことだと受け止めますが、「平易に語る大切さ」が強調されるにつれて、要求が過大になってきているように感じるるのです。

難しいことはどんなにやさしく語っても難しいものです。必要以上にわかりやすくしようとすれば、本質を捻じ曲げることにもつながります。枝葉末節を切り捨てた説明は、文脈を無視したことになりますから本来の意味と変わってきてします可能性が高いのです。

どんなにやさしくわかりやすい説明をしたところで、微分積分を四則計算ができない人に理解させるのは無理です。それを四則計算から説き起こせ、というのは受け手側の甘えだと思います。

難しいと思うなら、まず自分で勉強してみろよ、と思うことがあります。自分でわかる努力をしないで、発信側にすべての責任を押しつけている間は、わかった気になれても、本当に理解したことにはなりません。

発信する側にいるときは、できる限りわかりやすく伝えることを考えますが、逆に受け手になった場合は、それを発信者に過剰に求めないようにしたい、と自分に戒めています。

「読書百遍意自ずから通ず」
という言葉もあります。受け身で教わることばかりを考えるのでなく、自ら難解な海に飛び込み泳ぎ切る体験をすることで、本当に理解したという域に達するのだと思うのでした。